1/27の日記 関西

 夕方五時に起きる。夕食は明太子パスタ。それからサークルについて会議。12時頃、再びパスタを作る。ツナクリーム。明け方、夜行バスで関西から友達がやってくる。竹田青嗣をはじめ何人かの著名人(本人曰く「かっこいい大人」)にインタビューを行い、その成果を出版するのが上京の目的とのこと。文芸、映画・音楽、企業と様々なジャンルへ果敢に飛び込んでゆく19歳。一月50冊、20本の映画鑑賞が普通のペースという。これから一ヶ月間、僕の親しい友人の家に居候するそうだ。

 ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』読了 ☆3 最後まで読むと意外といけた。繰り返し読まないとダメかも。内容に反して永劫回帰できる小説かも。
 池内紀『となりのカフカ』読了 ☆2 カフカの生き方って変わってますね。小説家としての名声とか地位とか、本当に興味なかったのかな。たまにいますよね、こういうホントの変人。
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# by gogayuma | 2005-01-27 20:00

1/26の日記 銀座と旅と寿司

 夕方、旅費の支払いのため、どういうわけか銀座へ。今回の旅行はすべてパートナー任せのため文句は言えない。自分の好きなように旅したいのなら一人で行く。そう決めている。二人旅は楽しいけれど、雰囲気が悪くなると最悪。三人旅は一人が取り残されると悲惨=常時気を使わなくてはならないから論外。旅は一人旅、二人旅、四人以上の団体、このいずれかだと思う。
 満月。ビルの合間から真白く輝いていた。それから鮨を食べる。美登里寿司。近場に旨い寿司屋がないので比較的よく寄るのだが、金のない学生でも心配せずに食べられる良心価格。ネタも十分に満足できる。まわりにある一人ウン万の店と比べちゃいけない。大トロやらウニやらアナゴ丸ごと一本やらを熱燗でたらふく流し込んで3000円で済むのだから。30分くらいの待ちは覚悟の上で。それが嫌なら平日の8時を過ぎてから行くといい。場所は有楽町から品川方面へ向かうガード下。ココ
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# by gogayuma | 2005-01-27 09:00 | 日記・雑記

1/25の日記 たそがれ・・・

 30時間ぶりに6時間寝て、7時起床。朝ごはんは猫飯(ねこまんま)にトマト。『存在の耐えられない軽さ』の続きを読む。寓意的っていうのかな、しかもそれを解説してしまうという・・・。何度か読み進めるのをやめようとするが、舞台がプラハなのでそういうわけにもいかず。猛烈な睡魔が襲ってきて3時間熟睡。起きてまた『存在~』の続き。そしてblogの原稿をぱたぱたと打つ。夕方から夜中にかけてサークル会議。アフターで広島焼きを食べる。いいお店を発見。1000円前後で食べてビールが飲めるお店は何軒ストックがあってもいい。その後、映画☆3『明日に向かって撃て』、☆3+『たそがれ清兵衛』を観る。どちらもよかった。たそがれが意外に長く、朝4時の返却期限に10分に合わず延滞料金を支払うハメに。たそがれ・・・(tt

 日記を書くつもりはなかったのだけれど、コンテンツとしての記事を書く余裕がないため苦肉の策です。更新しないとやる気を失ってしまうため・・・。今のところ完成した未発表の記事(推敲中)がふたつ。常時これくらいのストックを保つため今後も日記で補っていくと思います。
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# by gogayuma | 2005-01-27 08:41 | 日記・雑記

『Sign』 Mr.Children

 優しさの中にどこか物悲しさがただようメロディー。聞くたびに何かがこみ上げてくる。

届いてくれるといいな
君の分かんないところで 僕も今奏でてるよ
育たないで萎れてた新芽みたいな音符(おもい)を
二つ重ねて鳴らすハーモニー

「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返して僕ら
人恋しさを積み木みたいに乗せてゆく
 「ありがとう」と「ごめんね」にはいくつかの使い方があるように思います。

 まず挨拶のような気軽さでいう場合。人は自分の心には疎くても、他人の心には敏感です。言葉に心がこもっているかどうかはすぐ分かる。言葉の重みを知っているのならば避けたい使い方です。そう思い続けていてもなかなか直りませんが・・・。

 相手に何かを期待して使う場合が一番多いのではと思います。感謝や謝罪の気持ちはある。しかし無意識的であれ心のどこかにそれ以外の気持ちがある。

 何も期待しない気持ち。心の底から湧きあがってくる想い。一番少ないこの使い方がもっとも美しいように感じます。言葉にする必要もない「ありがとう」と「ごめんね」。この美しさは想う気持ちが強いほど切ないものになる。そして、この曲全体にただよっているのは紛れもないこの、切なさではないでしょうか。


ありふれた時間が愛しく思えたら
それは“愛の仕業”と 小さく笑った
君が見せる仕草 僕に向けられてるサイン
もう 何ひとつ見落とさない
そんなことを考えている
 たとえば離れている時。切なさが強まりますよね。そうして切なさを感じれば感じるほど、ちょっとしたことに喜びを見出すことができる。愛ゆえの切なさ。想う相手が手段や過程ではなく、目的そのもの、結果そのものであること。愛の無償さのもつ切なさは、人を優しくします。


たまに無頓着な言葉で汚し合って
互いの未熟さに嫌気がさす
でもいつかは裸になり甘い体温に触れて
優しさを見せつけ合う

似てるけどどこか違う だけど同じ匂い
身体でも心でもなく愛している
 想っているのにどういうわけか喧嘩ばかり。そして後悔。想っているからこそできる喧嘩もある。でもそうやって肯定的に捉えられるうちは幸せ。別れって、二人が積み上げてきたものに比べるととても些細なことから起こることが多いように思います。ちょっとしたひびから全てが流れ出てしまう・・・。服、装い、プライド、こうした覆いがひびを起こす元凶。でもなかなか捨てられない。なぜなら、裸を見せるのは勇気がいるから。

 「匂い」という言葉を考えてみると、嗅覚としての「匂い」と気持ちとしての「匂い」がある。聞いているとこの二つが僕の中では混じり合っているように感じます。そしてこの調和こそが「体でも 心でもなく 愛している」という「じゃあどこを愛しているんだ?」といいたくなるフレーズの答えであるように思います。


僅かだって明かりが心に灯るなら
大切にしなきゃ と僕らは誓った
めぐり逢った すべてのものから送られるサイン
もう 何ひとつ見逃さない
そうやって暮らしてゆこう
 相手を思う気持ちを忘れちゃいけない。自分、そして相手をも不幸にするから。というような恋愛論的解釈がひとつ。もうひとつは「めぐり逢った すべてのものから送られるサイン」という一節から感じられる人生論的解釈。出逢ったこと、それだけで切ないもの。だからそれを一時も忘れちゃいけない。生きていること、この一瞬一瞬を噛み締めよう。心から味わい、楽しもう。僕は後者に深みを感じます。

緑道の木漏れ日が君にあたって揺れる
時間(とき)の美しさと残酷さを知る
 桜井の重要なモチーフの一つ、時間。この曲全体の中で唯一ネガティブなフレーズが使われている部分であり、ひっかかる人も多いのではないでしょうか。

 美しさは場面から直感的に感じられる。このシーンは曲中唯一の写実的な場面です。それが一層リアル感を高め、心に響く。うまいですよね。浮かぶ情景は人それぞれ違うと思いますが、木漏れ日というと僕は中野サンプラザ(※という中野にある建物です。サンプラザ中野ではありません。)西側の並木道を思い出します・・・。ローカルな話で恐縮ですが。

 美しさに比べると残酷さの解釈は難しい。昔は見えなかった「しわ」を見つけたのかもしれない。風の流れによる木の揺れ動きと永遠に変わることのない(ように思える)太陽の光とを比べ、流れ行く時間、終わりある人間というものを感じたのかもしれない。あるいはまったく違う別の何かかもしれません。僕の頭には先日割れた、気に入っていたカクテルグラスが浮かんできます。ピアノの音のせいかな・・・。

 でも、この箇所の歌詞解釈は正直どうだっていいです。美しいものはいつか壊れる。見過ごしやすいけれど、そういう残酷さは必ずある。これが何をおいても見逃してはならないこの曲のSignだと僕は受け止めています。


残された時間が僕らにはあるから
大切にしなきゃ と小さく笑った
君が見せる仕草 僕を強くさせるサイン
もう 何ひとつ見落とさない
そうやって暮らしてゆこう
そんなことを考えている
 残酷さに気づいてはじめて残された時間があることが分かる。この直感はとても切ないことです。でもネガティブな言葉を用いてまで桜井が伝えたかったことはもう一つあるように思います。悲しみを原材料とする切なさ。それを乗り越えるための勇気を与えてくれるのは、他でもない君のSignであるということ。

 切なさを生むSign。喜びを与えてくれるSign。辛さを感じさせるSign。たくさんのSignがある。でも、何ひとつ見落とさない。目を背けない。そうやって生きていきたいものです。
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# by gogayuma | 2005-01-26 09:50 |    ∟Mr.Children

小説作法というジャンルについての私見

 多くの職業作家あるいはその見習いさん達は、小説作法の本を読んでも書けるようにはならないという。僕は小説家ではない。本当のところは分からない。だが、そうしたアンチ小説作法は、ポーズに過ぎないか、本当の天才か、本当のバカかのいずれかではないだろうか。小説作法に関する本は売れ続けている。作家はなぜ小説作法というジャンルを忌み嫌う(ふりをする)のだろう?

 考えてみた。

 100人いれば100通りの読み方、書き方がある。その延長にあるのはテクニック云々よりもむしろ作家としての精神論であろう。

 精神論など不要であるという風潮がいつの世にもあるが、いまの日本は「必要」派が大勢を占めているように思う。逆に言えば精神論、つまり哲学がないということである。哲学がなければ、テクニックはテクニックのためにしか存在しないことになる。金が金のために存在していた時代を思い出していただきたい。バランスの欠如が起こした悲劇を。技術は哲学から生まれてくるものであり、哲学を深めるためには技術が必要だ。いい作品は両者の釣り合いがなければ生まれない。

 小説作法の忌避は他人の哲学を学ぼうとしない姿勢ではないだろうか。バランスの取り方は一つに限らない。とすれば小説作法を遠ざけるという方法も考えられる。しかし均衡が崩れることを恐れるあまり他人を見ないようにすると、いつしか硬直した自分に気がつくだろう。柔軟体操としての小説作法は有効だ。しなやかに受け流す力こそが、深い哲学を育む母胎となりうるのである。

 優れた小説作法はその哲学を通して、読書の奥深い面白さを見せてくれる。
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# by gogayuma | 2005-01-23 01:37 | 文芸/小説作法