毒のある読書を
2005-02-18T00:22:07+09:00
gogayuma
読(毒)をもって毒を制す。人生の困難に立ち向かう武器として、古今東西の本、映画、音楽などを語ります。
Excite Blog
2/18の日記 帰国しました
http://gogayuma.exblog.jp/739593/
2005-02-18T00:15:00+09:00
2005-02-18T00:22:07+09:00
2005-02-18T00:22:07+09:00
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日記・雑記
2/2の日記 中欧へ行ってきます。
http://gogayuma.exblog.jp/521426/
2005-02-02T12:38:04+09:00
2005-02-02T12:36:03+09:00
2005-02-02T12:36:03+09:00
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日記・雑記
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☆☆☆ 高橋源一郎『一億の三千万人のための小説教室』
http://gogayuma.exblog.jp/521393/
2005-02-02T12:36:15+09:00
2005-02-02T12:34:14+09:00
2005-02-02T12:34:14+09:00
gogayuma
未分類
高橋 源一郎 / 岩波書店
ISBN : 4004307864
既に書かれた小説は過去のものである。小説を書くという試みの原点は、今ある世界に対する疑問ではないだろうか。過去の総体である現在に違和感を感じ、なんとか乗り越えようとする。そうした切実な思いが作家に筆を取らせる。小説は根底において未来に属するものなのだ。「少し長いまえがき」にはだいたいこのようなことが書いてある。
小説作法には哲学がある。それを通して小説の深いところでの面白さを知ることができると以前書いた。まさにそのような本である。購入のきっかけは保坂一志の著書(『書きあぐねている人のための小説入門』)での紹介。これ以外にまともな小説の書き方マニュアルはないとあり、小説作法書フリークとしては買わないわけにはいかなかった。
技術的なことはどこにも書かれていない。作者はこう語るだけだ。口まねをしろ、と。考えてから言葉が生まれるのではない。赤ん坊がそうであるように、言葉は口まねから生まれる。そこで大切なのは好きでたまらない本と出会うこと。口まねは消化するための手段だ。好きなものを食べる。本当に自分に合うものは血肉として自分の一部になる。うまく吸収されなかったものは肥料として蓄えられる。食べて、食べて、食べまくれ。
朗読は時間がかかる分、読んでいることを忘れるくらい物語の世界へ入りこめる。少し前のブームはそれが廃れていることのあらわれだろう。読み聞かせ、楽しいのにね。
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1/30の日記 お酒は20歳まで・・・。
http://gogayuma.exblog.jp/521265/
2005-01-30T00:00:00+09:00
2005-02-02T12:26:30+09:00
2005-02-02T12:25:58+09:00
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未分類
江村洋『ハプスブルグ家』読了]]>
1/28の日記 鍋
http://gogayuma.exblog.jp/521243/
2005-01-28T12:25:00+09:00
2005-02-02T12:26:37+09:00
2005-02-02T12:24:14+09:00
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日記・雑記
カフカ『審判』読了 ☆3 カフカって単に文学史の時代象徴的な作家かと思っていたのだけれど、読むと意外と面白いんですね。]]>
1/27の日記 関西
http://gogayuma.exblog.jp/521224/
2005-01-27T20:00:00+09:00
2005-02-02T12:29:03+09:00
2005-02-02T12:22:27+09:00
gogayuma
未分類
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』読了 ☆3 最後まで読むと意外といけた。繰り返し読まないとダメかも。内容に反して永劫回帰できる小説かも。
池内紀『となりのカフカ』読了 ☆2 カフカの生き方って変わってますね。小説家としての名声とか地位とか、本当に興味なかったのかな。たまにいますよね、こういうホントの変人。]]>
1/26の日記 銀座と旅と寿司
http://gogayuma.exblog.jp/521166/
2005-01-27T09:00:00+09:00
2005-02-02T12:21:33+09:00
2005-02-02T12:17:31+09:00
gogayuma
日記・雑記
満月。ビルの合間から真白く輝いていた。それから鮨を食べる。美登里寿司。近場に旨い寿司屋がないので比較的よく寄るのだが、金のない学生でも心配せずに食べられる良心価格。ネタも十分に満足できる。まわりにある一人ウン万の店と比べちゃいけない。大トロやらウニやらアナゴ丸ごと一本やらを熱燗でたらふく流し込んで3000円で済むのだから。30分くらいの待ちは覚悟の上で。それが嫌なら平日の8時を過ぎてから行くといい。場所は有楽町から品川方面へ向かうガード下。ココ。
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1/25の日記 たそがれ・・・
http://gogayuma.exblog.jp/434548/
2005-01-27T08:41:00+09:00
2005-01-27T08:49:44+09:00
2005-01-26T09:40:53+09:00
gogayuma
日記・雑記
日記を書くつもりはなかったのだけれど、コンテンツとしての記事を書く余裕がないため苦肉の策です。更新しないとやる気を失ってしまうため・・・。今のところ完成した未発表の記事(推敲中)がふたつ。常時これくらいのストックを保つため今後も日記で補っていくと思います。]]>
『Sign』 Mr.Children
http://gogayuma.exblog.jp/406909/
2005-01-26T09:50:00+09:00
2005-01-26T10:01:08+09:00
2005-01-24T01:34:32+09:00
gogayuma
∟Mr.Children
届いてくれるといいな
君の分かんないところで 僕も今奏でてるよ
育たないで萎れてた新芽みたいな音符(おもい)を
二つ重ねて鳴らすハーモニー
「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返して僕ら
人恋しさを積み木みたいに乗せてゆく 「ありがとう」と「ごめんね」にはいくつかの使い方があるように思います。
まず挨拶のような気軽さでいう場合。人は自分の心には疎くても、他人の心には敏感です。言葉に心がこもっているかどうかはすぐ分かる。言葉の重みを知っているのならば避けたい使い方です。そう思い続けていてもなかなか直りませんが・・・。
相手に何かを期待して使う場合が一番多いのではと思います。感謝や謝罪の気持ちはある。しかし無意識的であれ心のどこかにそれ以外の気持ちがある。
何も期待しない気持ち。心の底から湧きあがってくる想い。一番少ないこの使い方がもっとも美しいように感じます。言葉にする必要もない「ありがとう」と「ごめんね」。この美しさは想う気持ちが強いほど切ないものになる。そして、この曲全体にただよっているのは紛れもないこの、切なさではないでしょうか。
ありふれた時間が愛しく思えたら
それは“愛の仕業”と 小さく笑った
君が見せる仕草 僕に向けられてるサイン
もう 何ひとつ見落とさない
そんなことを考えている たとえば離れている時。切なさが強まりますよね。そうして切なさを感じれば感じるほど、ちょっとしたことに喜びを見出すことができる。愛ゆえの切なさ。想う相手が手段や過程ではなく、目的そのもの、結果そのものであること。愛の無償さのもつ切なさは、人を優しくします。
たまに無頓着な言葉で汚し合って
互いの未熟さに嫌気がさす
でもいつかは裸になり甘い体温に触れて
優しさを見せつけ合う
似てるけどどこか違う だけど同じ匂い
身体でも心でもなく愛している 想っているのにどういうわけか喧嘩ばかり。そして後悔。想っているからこそできる喧嘩もある。でもそうやって肯定的に捉えられるうちは幸せ。別れって、二人が積み上げてきたものに比べるととても些細なことから起こることが多いように思います。ちょっとしたひびから全てが流れ出てしまう・・・。服、装い、プライド、こうした覆いがひびを起こす元凶。でもなかなか捨てられない。なぜなら、裸を見せるのは勇気がいるから。
「匂い」という言葉を考えてみると、嗅覚としての「匂い」と気持ちとしての「匂い」がある。聞いているとこの二つが僕の中では混じり合っているように感じます。そしてこの調和こそが「体でも 心でもなく 愛している」という「じゃあどこを愛しているんだ?」といいたくなるフレーズの答えであるように思います。
僅かだって明かりが心に灯るなら
大切にしなきゃ と僕らは誓った
めぐり逢った すべてのものから送られるサイン
もう 何ひとつ見逃さない
そうやって暮らしてゆこう 相手を思う気持ちを忘れちゃいけない。自分、そして相手をも不幸にするから。というような恋愛論的解釈がひとつ。もうひとつは「めぐり逢った すべてのものから送られるサイン」という一節から感じられる人生論的解釈。出逢ったこと、それだけで切ないもの。だからそれを一時も忘れちゃいけない。生きていること、この一瞬一瞬を噛み締めよう。心から味わい、楽しもう。僕は後者に深みを感じます。
緑道の木漏れ日が君にあたって揺れる
時間(とき)の美しさと残酷さを知る 桜井の重要なモチーフの一つ、時間。この曲全体の中で唯一ネガティブなフレーズが使われている部分であり、ひっかかる人も多いのではないでしょうか。
美しさは場面から直感的に感じられる。このシーンは曲中唯一の写実的な場面です。それが一層リアル感を高め、心に響く。うまいですよね。浮かぶ情景は人それぞれ違うと思いますが、木漏れ日というと僕は中野サンプラザ(※という中野にある建物です。サンプラザ中野ではありません。)西側の並木道を思い出します・・・。ローカルな話で恐縮ですが。
美しさに比べると残酷さの解釈は難しい。昔は見えなかった「しわ」を見つけたのかもしれない。風の流れによる木の揺れ動きと永遠に変わることのない(ように思える)太陽の光とを比べ、流れ行く時間、終わりある人間というものを感じたのかもしれない。あるいはまったく違う別の何かかもしれません。僕の頭には先日割れた、気に入っていたカクテルグラスが浮かんできます。ピアノの音のせいかな・・・。
でも、この箇所の歌詞解釈は正直どうだっていいです。美しいものはいつか壊れる。見過ごしやすいけれど、そういう残酷さは必ずある。これが何をおいても見逃してはならないこの曲のSignだと僕は受け止めています。
残された時間が僕らにはあるから
大切にしなきゃ と小さく笑った
君が見せる仕草 僕を強くさせるサイン
もう 何ひとつ見落とさない
そうやって暮らしてゆこう
そんなことを考えている 残酷さに気づいてはじめて残された時間があることが分かる。この直感はとても切ないことです。でもネガティブな言葉を用いてまで桜井が伝えたかったことはもう一つあるように思います。悲しみを原材料とする切なさ。それを乗り越えるための勇気を与えてくれるのは、他でもない君のSignであるということ。
切なさを生むSign。喜びを与えてくれるSign。辛さを感じさせるSign。たくさんのSignがある。でも、何ひとつ見落とさない。目を背けない。そうやって生きていきたいものです。]]>
小説作法というジャンルについての私見
http://gogayuma.exblog.jp/390018/
2005-01-23T01:37:00+09:00
2005-01-23T01:50:07+09:00
2005-01-22T18:01:36+09:00
gogayuma
文芸/小説作法
考えてみた。
100人いれば100通りの読み方、書き方がある。その延長にあるのはテクニック云々よりもむしろ作家としての精神論であろう。
精神論など不要であるという風潮がいつの世にもあるが、いまの日本は「必要」派が大勢を占めているように思う。逆に言えば精神論、つまり哲学がないということである。哲学がなければ、テクニックはテクニックのためにしか存在しないことになる。金が金のために存在していた時代を思い出していただきたい。バランスの欠如が起こした悲劇を。技術は哲学から生まれてくるものであり、哲学を深めるためには技術が必要だ。いい作品は両者の釣り合いがなければ生まれない。
小説作法の忌避は他人の哲学を学ぼうとしない姿勢ではないだろうか。バランスの取り方は一つに限らない。とすれば小説作法を遠ざけるという方法も考えられる。しかし均衡が崩れることを恐れるあまり他人を見ないようにすると、いつしか硬直した自分に気がつくだろう。柔軟体操としての小説作法は有効だ。しなやかに受け流す力こそが、深い哲学を育む母胎となりうるのである。
優れた小説作法はその哲学を通して、読書の奥深い面白さを見せてくれる。]]>
書籍の貸与権問題
http://gogayuma.exblog.jp/393079/
2005-01-23T01:19:00+09:00
2005-01-23T03:49:56+09:00
2005-01-22T23:13:52+09:00
gogayuma
文芸/雑記
それぞれのblogで論点が食い違っているように思います。結局の問題は著作者や出版社に金が入らなくなると経営が厳しくなり、従って質も落ちていくという悪循環に帰結するという点です。個人的には書物は文化であり、文化財(知的財産)には絶対的な保護をしてもらいたいと思います。とはいえ現代の社会において特定のジャンルだけを特別扱いするわけにはいかない。書籍のあり方を見直す機会とみていいのではないでしょうか。問題はどれだけ出版サイドがメリットを得るかということ。図書館のあり方も変わって当然ですよね。
活字文化の供給方法が多様化している今、新しいビジネスモデルの普及が必要なのではないかと思います。インターネットの発達やblogの広がりはいい例ですね。厳しいようですが、出版サイドが印税とマージンだけで食べていく時代は終わったのではないでしょうか。ひとつのプランとして、読者が直接的に作家や出版社を支えるシステムなんてどうでしょう? 読者は好みのコミュニティ(ないし個人)の質・規模の維持拡大を期待して投資し、投資された側は出資者の期待に応えるよう努力する。そして成功した場合は出資者にリターンをする、という相互補完システム。商品そのものに対価を支払うのではなく、出版サイドに直接投資するという新しいラインの構築。資本の流入よって出版業界全体を活性化させる・・・。ふとした思い付きです。法律や業界の詳しい事情も分かりません。先ほどのプランにしても、ぱっと思いつくだけでも著しい質の低下に繋がりかねない危険性を含んでいるのが分かります。でもとにかく僕が言いたいのは、文化に対する危機意識が希薄なまま文化財という役割を担えるほど活字文化は薄っぺらいものではないだろうということです。書籍流通に関わるコミュニティ全てが活字文化を担っているという自負をもち、真摯に向き合ってほしいものです。こうした議論が今後さらに活性化することを期待します。
取り返しのつくあいだに出版業界の再興が必要でしょう。文化そのものが衰退する前に。なんて深刻に&偉そうに書きましたが、衰退と再興とはシーソーゲームです。いずれは戻るでしょう。重要なのは戻り方。質の維持・向上を決定づけます。この点は未掲載の別エントリー「小説作法というジャンルについての私見」の方で扱う「バランス」という考え方にも通じることなので、後日目を通していただければ幸いです。]]>
引越し完了!
http://gogayuma.exblog.jp/386257/
2005-01-22T17:12:00+09:00
2005-01-22T18:19:08+09:00
2005-01-22T06:34:15+09:00
gogayuma
日記・雑記
エキサイトブログ、使い勝手がとてもいいです。軽さは言うまでもなく。社長ブログも好きです。仕事もプライベートも充実されているのが伝わってきて読んでいて楽しくなる。見習わねば。今後は村上春樹、モーム、ミスチル、小説作法等、軸となるコンテンツを充実させると共に、日々の読書や映画の感想などもポストしていくつもりです。
先の記事でも書いたとおり二月頭の海外行きとその準備(&テストも・・・)のため更新が滞ります。気がかりですが、帰国後に旅行記等で取り戻せればと思っています。末永く、よろしくお願いします。]]>
☆☆☆+ 映画『カッコーの巣の上で』ミロス・フォアマン
http://gogayuma.exblog.jp/385958/
2005-01-22T04:44:35+09:00
2005-01-22T16:54:25+09:00
2005-01-22T04:44:16+09:00
gogayuma
映画/☆3以上
/ ワーナー・ホーム・ビデオ
ISBN : B0007IOJSY
昨日に続いてチェコにまつわる話。今日は映画。ハリウッドで現在最も活躍している(亡命)チェコ人映画監督、ミロス・フォアマン。この後に『アマデウス』を撮っている。笑いあり涙ありの作品にも関わらず、見終えると心のわだかまりが解消するどころか余計にもやもやとする。名作である。原作はケン・キージー。ヒッピー文化の先駆者とのこと。人間の自由と尊厳が基本テーマ。刑務所から精神病院に移された主人公が、婦長をはじめとする病院側の独善的なやり方に反抗するという流れで話は進む。
ジャック・ニコルソンがハマリ役。僕は演技に魅せられることは滅多にないのだが、あの笑顔にはかなわない。患者仲間達も個性豊かなキャラクターを名演(誰か一人と言われたら、やはりインディアンの末裔を挙げたい)。敵対する婦長のこれでもかと言わんばかりの憎々しさには本当に腹が立った。・・・自由とは。尊厳とは。そして正義とは何か。
カッコーという鳥は自分の巣を持たない。他所の巣にある卵を一つ蹴落として卵を産む。しかも非常に早く孵化するカッコーの雛は他の卵すべてを蹴落とす。閑古鳥とはカッコーのことだ。寂しい泣き声に加え、巣のさびれ具合をもあらわしているのだろう。
カッコーとは英語で気が触れた者という意味。カッコーの巣とは精神病院のメタファーだそうだ。僕は巣の上のカッコーになぞらえたのかと思ったのだけれど。
・・・追記 実はカッコーの巣になぞらえたこと自体は間違いではなかった。カッコーは育ての親を本当の親だと思い、育ての親もカッコーのことを本当の子だと思う。カッコーの巣とはこうした非本来的な関係であり意味的には存在しない場所である。つまりカッコーとはかりそめの秩序に疑いを持たずに生活していた精神病患者達であり、その巣に進入してきたマクマーフィーの「外へ出て真実を見ろ」という呼びかけこそが主題であるようだ。
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☆☆☆+ 春江 一也『プラハの春』
http://gogayuma.exblog.jp/385951/
2005-01-22T04:43:15+09:00
2005-01-22T18:15:53+09:00
2005-01-22T04:42:56+09:00
gogayuma
文芸/日本現代
春江 一也 / 集英社
ISBN : 408747173X
現役外交官が自らの実体験を元に、1960年代後半のチェコスロバキア民主化運動を描く。外交官という立場から眺めた世界は新鮮。そして登場人物一人一人が強烈な存在感をもつ。作者のこめる思いの強さが感じられる。恋愛小説というよりも歴史小説として評価されるべき作品だが、キャラクターの重みゆえに単なる歴史小説にとどまらない迫力がある。作者の本業ではない。当然、目に付くところは少なく無い。だがそれを斟酌してもこの作品を見ると、作中のような特殊な場合を除き、外交官がいかに暇であるかが窺い知れる。
読んでいて痛切に感じられるのは個人の無力さだ。誰も歴史という大河に立ち向かえはしない。個人の行動は大河に一本の杭を打ち込むかのようなものでしかない。それを承知で自らの命を賭して生きた人々の姿は感動的である。歴史はその一本の積み重ねである。だが、同時にある種の諦念を感じずにはいられない。個人は大河全体を見渡すことはできないし、過ぎ去った流れは決して後戻りしない。個人の不幸があり、歴史の事実がある。
来月、ウィーンを出発点として、この小説の舞台となったプラハにいく(この寒い時期に・・・)。作品中でも何度か言われている通りチェコは言葉の民である。古くはカフカ、チャペック、ハシェクがおり、最近では『存在の耐えられない軽さ』のミラン・クンデラがいる。この機会にすこし東欧の文学に触れようと思っている。]]>
☆☆☆ W・Sモーム『女ごころ』サマセット・モーム(新潮文庫 龍口直太郎訳)
http://gogayuma.exblog.jp/385946/
2005-01-22T04:40:22+09:00
2005-01-22T04:57:38+09:00
2005-01-22T04:40:02+09:00
gogayuma
∟W.S.モーム
モーム 竜口 直太郎 William Somerset Maugham / 新潮社
ISBN : 4102130063
モーム六十七歳の時の作品。凝縮されテンポがいい。それでいて深さを備えているところがモームの妙味であるが、真実のあり方と女ごころの動きとの対照が面白い。
夫に先立たれた主人公のメアリイは最初ある男に求婚される。エドガーという旧知の仲の将来も安泰な出世頭の役人であり、メアリイもその気になる。それからとあるパーティーで知り合った放蕩児のようなロウリイにも求婚される。帰り道にパーティーでバイオリンを弾いていた貧相な男を目にし哀れみを感じて自宅に入れてやり男にとって人生最高という一夜を明かすが、別れ際にメアリイが結婚するつもりでいることを話すと男は逆上してその場でピストル自殺をする。他人に気づかれては身の破滅だということに気づいたメアリイは出張していたエドガーではなくロウリイに助けを求める。男は機転を利かして事態を切り抜け、このことは心に秘めておけと言う。だがメアリイはエドガーにすべてを告白した上でエドガーの求婚を断り、ロウリイに惹かれてゆく。こんなストーリーである。
序盤はピストルが小道具として緊張感を生み中盤では死体運びがスリリングに描かれる。終盤ではモームの人生観がロウリイの口によって語られる。メアリイの嘘をつけない弱さと冷静だが社会や道徳に縛られない人生観を持つロウリイの強さ。この二人がどういうわけかお互いに心から惹かれあうという矛盾した構図がモームらしく、そこに真実味がある。]]>
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